Mishina’s Eye Vol.11

1984_Australia 11-22(写真撮影)
11月21日水曜日。殺虫剤の洗礼というカルチャーショックにも似た儀式の後、機外に出ると大きく息を吸い込んでオーストラリアの大地を踏みしめたが、まだなんだかふわふわした感じだった。入国審査もドキドキしながら「サイトシーン。アバウト スリー ウィークス」で無事通過。スーツケースをピックアップして、皆に遅れないよう空港ロビーを抜けて、森脇さんが手配していたレンタカーに便乗させてもらって宿舎へ。じゃなくて船便で送っていたマシンなどのレース用機材満載のトラックを受け取りに港湾施設へ。しかし通関手続きができず、その日トラックは受け取れず、森脇さんの落胆ぶりは大きかったが気持ちの切り替えも早い。ボーダーが休み(?)じゃしかたないと一行はスワンシリーズ開幕の地へ。

1984_Australia 11-22(ウェルカム・レセプション)

1984年のオーストラリア・スワンシリーズは3戦が行われた。開幕戦は11月25日ビクトリア州のコルダーパーク、第2戦は12月2日ニューサウスウェルズ州のオーランパーク、最終戦は12月9日クィーンズランド州のサーファーズパラダイスで、各ラウンド2レースの合計6レース、3週連続でオーストラリア大陸の東側を北上しながらタイトルが争われた。参加車両は490ccから1000ccまで、GPマシンあり2サイクルレーサーあり、かなりチューンアップされたスーパーバイクや1000ccTTF1マシンありと言ってみれば何でもありのオープンクラス。もちろんインターナショナルイベントで、ヨーロッパや隣のニュージーランドからもライダーが参加してくる。この年のイギリスTTF1チャンピオンで世界グランプリ500ccでは市販RS500で表彰台に立ちランキング7位となったワイン・ガードナー選手がホンダRS500、ロブ・マッケルニア選手はヘロン・スズキRGΓ500、ポール・イッドン選手はスズキRGB500、迎え撃つ地元勢ではロブ・フィリス選手がアクション・スズキGS1000、マイケル・ドーソン選手はヤマハTZ750、ケビン・マギー選手はドゥカティの750cc、ホンダ・オーストラリアのアンドリュー・ジョンソン選手RS500、マルコム・キャンベル選手はホンダの1000ccF1アップハンドルのマシンなどなど。そこへ全日本TTF1クラス初代チャンピオンとなった八代俊二選手と宮城光選手の二人を引き連れて空冷750ccエンジンのZero−X7でモリワキレーシングが挑戦。レース結果を出すためではなく未来を見据えて、ライダー、そしてチームの成長のために。そのような森脇さんの参加趣旨だったので、駆け出しの私の同行を快くOKしてくれたのだろう。

1984_Australia 11-24_(動物園にて昼寝する私と森脇)

さて、コルダーパークは1周が1.6km。モアイ像を寝かしたようなレイアウトで時計回り。到着した一行はコースの下見のため歩き出した。鈴鹿などのきれいな路面しか見たことがなかったので、路面はボロボロに荒れていて、所々アスファルトを今しがた敷きなおしましたという感じの大小のパッチがある。継ぎ目の段差もあるし・・・と言うかまだ工事してるじゃないですか。のんびりムード満載で、ライダー達はどうかわからないが、私もスギさんも観光客のようにコースウォークを満喫した。

1984_Australia 11-21(コース下見2)

11月22日木曜日。サーキットにガードナー選手やフィリス選手、オーストラリアホンダのジョンソン選手らが来ていた。撮影があるという。マシンに跨ったガードナー選手の横にジョンソン選手、八代、宮城両選手もツナギに着替えてヘルメット持って両脇に立ち「ハイポーズ!」。その後走行シーン撮影のためにガードナー選手とジョンソン選手はそれぞれのマシンで走行開始。といってもカメラカー先導なのでゆっくりと。まだマシンが到着していないモリワキライダーは、早く走りたいなぁという気持ちを押し殺しながら撮影風景を見守っていた。撮影が始まって少したった頃、突然掻き曇ったかと思ったら直径1cmくらいはありそうな大きな氷の塊がバラバラと落ちてきた。こんなおおきな粒の雹は初めてだ。あわてて頭上を遮るものがあるところへ退避。地元の人は慣れているのか、ニコニコしながら我々のあわてぶりを眺めていた。その日の夕方前、通関手続きを終えたモリワキのトラックがやってきた。この遠征のために用意したという白地に青と黄色のラインとMORIWAKIのロゴマークが入った日野レンジャー4トンパネルトラック。オーストラリア大陸を走るということで、いつカンガルーが飛び込んできても車に大きなダメージを与えないようにと、少し控えめな「カンガルーバー」がフロントにつけられていた。ナンバープレートは日本のままで走行OK。ニコニコ笑顔の森脇さんはトラックの横でピースサイン。その後サーキットのクラブハウスでスワンシリーズのウェルカム・レセプションが行われ、参加選手や関係者が集まり親交を温めた。隣の部屋にはビリヤード台が置かれていて、さっそくライダーたちは勝負を始めていた。

1984_Australia 11-22(到着したトラックに思わずピースサインの森脇)

1984_Australia 11-22(ビリヤードする宮城)

11月23日金曜日。各チーム与えられた小さなガレージスペースでマシンのセットアップ。空ぶかしする2サイクル500ccGPマシンの甲高いエキゾーストノートや4サイクル1000ccの唸るような低い図太い号砲、そしてモリワキZero−X7、空冷750ccのホンダCBXエンジンの乾いた小気味よいサウンドがオーストラリアの大地に響き渡った。モリワキのマシンは全日本の鈴鹿を走った時のセッティングのままで、特別にスワンシリーズ用にモディファイされていない。ライダー、メカニック、そして私にとっても初の海外レースが始まった。黙々と普段通りに作業に集中する二橋メカと雑賀メカ。柔軟やストレッチで体をほぐしていく八代選手、宮城選手。マシンに跨りポジションのチェック・・・。自分がレースを戦うわけでもないのに、見ているだけなのに何故だかドキドキ、ワクワク、ハラハラ、心拍数も鰻上りに上昇しエキサイトしているのがわかった。コースを走り、ピットに戻り、森脇さんやメカニックにマシンの状況を告げる。少し何かを変更し、タイヤをチェックしてまたコースに出ていく。そんな繰り返しであっという間に走行が終わった。ライダーにとって初めてのコース。セッティングも鈴鹿仕様のままから大きく変えることはできない。その日のライダーの疲労感はいつも以上だったのかもしれない。

1984_Australia 11-23(走行後、マシンについてしゃべっている八代)

1984_Australia 11-25_(決勝日朝の宮城とポール・ケンドール)

11月24日土曜日、予選日。スワンシリーズは全3戦6レースで行われるが予選はこの日だけだ。第1戦レース1のスタートポジションを決めるためのタイムトライアル。レース2はレース1の結果順に並び、第2戦レース1は第1戦の総合順位順、レース2はレース1の結果順にグリッドが決まる。第3戦も同じ。
実はモリワキのオーストラリア、ニュージーランド遠征に同行していたにもかかわらず、予選結果やレース結果を貰ってきていないという大失態を犯していたので、予選結果の詳細は覚えていない。ただ圧倒的速さでワイン・ガードナー選手がポールポジションを獲得したことは覚えている。そして各列6台が横並びのグリッドとなる。この日予選は早いうちに終わったので、夕方、森脇さんの引率で一行はメルボルンの動物園で束の間の休息。コアラがのっしのっしと地面を歩く姿を間近で目撃し大感激。ウォンバットも見られたし。

1984_Australia 11-24_(動物園にてコアラ歩く)

11月25日日曜日、決勝日。レースは拙い自分のしゃべりを録音したカセットテープを聞きながら・・・。ちなみにレース1は森脇さんと一緒に2コーナー先のダブルS字あたりの土手に座り、レース2はピットサインエリアに入って片手にエントリーリスト、もう片方の手に持ったカセットテープレコーダーに向かってしゃべってた。1984_Australia 11-25_(決勝日朝のグレン・ミドルミス)

レース1、ポールのワイン・ガードナー(H−RS500)がスタート失敗し後方から追い上げるレースとなった。好スタートのアンドリュー・ジョンソン(H−RS500)がホールショットからトップ。続いてロブ・フィリス(S−GS1000)、ロブ・マッケルニア(S−RGΓ500)、グレン・ミドルミス(S−RGB500)、マルコム・キャンベル(H−1000)がピタリとつけてトップ争いを展開。その後方にスタート失敗したガードナーが猛然と迫り、トップ争いは6台の集団。八代選手はセカンドグループで7位のジョン・ペイス(S−RGB500)を追いかけている。宮城選手はサードグループの先頭を走るが途中でコースアウト。転倒は免れたが再スタートの間にトップグループに周回遅れとされてしまう。そのトップ争いはジョンソンを捉えたマッケルニアが後方を突き放しにかかる。ひとつ、またひとつとポジションを上げて2位まで来たガードナーが迫っていくが届かず。レース1はマッケルニア優勝、ガードナー2位、3位にミドルミス、4位ジョンソン、5位キャンベル、6位にペイス(?)、7位で八代選手、宮城選手は15位あたりでフィニッシュとなった。序盤上位を走ったフィリスはマシントラブルのため大きく後退した。

1984_Australia 11-25_(レース2前の宮城)

レース2は、レース1の結果順にグリッドに並んでいる。八代選手は2列目、宮城選手は3列目からのスタート。八代選手が好スタートで1コーナーは3番手あたりで入っていくがストレートでどんどん遅れ、1周目9位でコントロールラインを通過。八代選手のすぐ後ろにスタート失敗したガードナーがついている。トップ争いはレース1同様ジョンソンがトップ、そしてマイケル・ドーソン(Y−TZ750)、マッケルニア、フィリスの4人が激しく争う。レース中盤激しいトップ争いはマッケルニアがトップに立ちドーソン2番手、ジョンソンが3番手に後退しフィリス4位。ちょっと離れて5位にペイス、6位争いにガードナー、イッドン、キャンベルと続き、八代選手は9番手。その後ガードナーがレース1と同じようにポジションを上げ、最終ラップに入ったところでトップへ。しかしマッケルニアが意地で取り戻す。最終コーナーを並ぶように立ち上がった二人。わずかにガードナーが前に出てチェッカードフラッグを受けた。3位ドーソン、4位ジョンソン、5位フィリス、6位ペイス、7位イッドン、8位キャンベル、9位に自己ベストの46秒6を出した八代選手、10位がドン・ホーリック(S−RGB500)、「グリッド位置なんてどうでもいいわ、なにもかも、全てが大変!ただただ大変!」と言っていた宮城選手は47秒1の自己ベストを出したが13位あたりだった。初戦を終えてそれぞれが、それぞれの問題、というか課題を抱え、疲労の色を顔ににじませながら宿舎に戻った。翌日は次の戦いの地、ニューサウスウェルズ州オーランパークへ向けて移動が始まる。

つづく

1984_Australia 11-23(やっぱりピースサインの宮城)

1984_Australia 11-21(港湾施設がっかり)

 

1984_Australia 11-25_(決勝日朝のフィリス、宮城、八代)