Mishina’s Eye Vol.10

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ある意味で私の原点になる30年前のことを、記憶の糸を手繰り寄せながらボチボチ書いていきます。忘れていること、思い出せないこと多々あると思います。それなりに美化している、間違って記憶にとどめていることもあるかもしれませんが、少しお付き合いください。

1984年11月20日早朝。スーツケースに1か月半のあいだ使い回せるだけの着替えなどを詰めて鈴鹿市のモリワキ・エンジニアリング本社へ。いよいよ私の初海外渡航がスタートする。行先はオーストラリアとニュージーランド。それも1か月半の長旅。

全日本選手権シリーズの国際ライセンスクラスでの初年度となった1984年。TTフォーミュラ1、TTフォーミュラ3クラスでモリワキレーシングは、国際A級TTF1クラス・八代俊二選手、国際B級TTF1&TTF3クラス・宮城光選手がそれぞれ初代チャンピオンを獲得した。いつごろからモリワキがオーストラリア、ニュージランドに遠征するという話が起きたのか定かに覚えていないが、私が遠征の情報を聞いたのは、確か9月の終わりか10月初旬頃だったと思う。
当時、鈴鹿サーキットでレスキューをしていたスギさん(杉山さん)が八代選手のトレーナーのようなこともやっていて、「今度、オーストラリア、ニュージーランドに行くけど来てくれない?」と言われたそうだ。そしてスギさんは私に「ミッシー、今度、はっちゃん達がオーストラリア、ニュージーランドに行くんだって。で、俺に一緒に来てくれって言うんだけど、一人じゃ寂しいから一緒に行かない?」って声をかけてくれた。

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その頃私は飢えていた。今のようにインターネットがあるわけでもなく、TVでレース番組があるわけでもなく、情報を得る手段としてはオートバイの月刊誌くらいしかない時代。何でもよいから情報が欲しい。グレーム・クロスビーやグレッグ・ハンスフォード、そしてワイン・ガードーナーといったオーストラリアやニュージーランドから出てきた選手たちは、いったいどんな環境で走ってきたのだろうか? なんであんなにタフなのだろうか? レースの進行はどうやってるのだろうか、場内放送は・・・などなど、自分の目で見たい、肌で感じたい・・・。まだまだ駆け出しのひよっ子で、情報もデータも足りない、満足に実況すら出来ていない私は何でも吸収したくて、とにかく飢えていた。そんな私にとってスギさんからのお誘いは、飛び上るほど嬉しかった。お願いの細かい文言や理由づけは忘れたが、すぐに森脇さんに「オーストラリア、ニュージーランド遠征に行きたいのですが、同行させてもらえないでしょうか?」とお願いしに行った。森脇さんは「ハイ、良いですよ!」って即答してくれた。私は宿泊や飛行機の手配とか、現地での移動手段とか何も考えていなかった。というより、そこまで気が回らないくらい『行きたい!』という気持ちが勝ってしまっていた。

1984_Australia 11-20(342)具体的な日程、行程などのスケジュールの打ち合わせは、森脇南海子さんと話をした。往復の飛行機について、モリワキのメンバーと一緒にツアー組みます。宿泊もチームと同じ所に部屋割りをします・・・。当然、飛行機料金や宿泊料金、現地での食事代は自分で払いました。といってもモリワキのツアー料金だったのでかなり安く収まった。ひょっとしたら森脇さんのほうで安くしてくれたのかも・・・。さらに現地での移動は「お金がかかってもったいないから、うちのチームの車に乗ってください。」とありがたいお言葉をいただいた。至れり尽くせりといった感じでとてもありがたかった。当時1オーストラリアドルが250円くらい、1ニュージーランドドルが、その半分の125円くらいだった。それから慌ただしくパスポートや国際免許の申請をバタバタと済ませ、あまりお金もなかったが、カメラ屋さんで少し安く売っていたネガフィルムを大人買い。といっても10数本なので・・・、でも一度に2本以上買ったことがなかった私にしてみれば大量買いです。それとアイワのカセットボーイという録音できるポータブルカセットプレーヤーと数本のカセットテープを購入。勿論メモ帳と筆記用具も忘れずにカバンに詰め、現金はあまり持ち歩きたくなかったので銀行へ行ってトラベラーズチェックに僅かのお金を換えた。「パスポートと財布は肌身離さないように腹巻して、そこに挟んでいた方が良い。」という親戚からのアドバイス。寅さんじゃぁあるまいし腹巻はちょっと・・・まぁ一月半も仕事せずに出かけてしまうのでフーテンみたいなものですが、とりあえず腹巻はパスしてウェストバッグを入手。英語出来ないけどモリワキチームと一緒だし何とかなるでしょ。八代選手は世界を目指していたんでしょうねぇ、それ以前から英語の勉強をしていて日常会話できてましたから。

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さぁ準備万端整いました。集合時間は早朝5時、だったかな。まだ暗く吐く息が白くなる冷え込んだ夜明け前。自分の車にスーツケース乗せてモリワキ本社へ向けて家を出た。早朝で道が空いていたこともあり、5時前には到着した。すでに事務所には灯りが燈っており、ライダーをはじめ遠征するメンバー、見送りするスタッフが三々五々集まってきた。そんな中事務所に現れた森脇さんが旅行鞄とは別に手に持っていたのはレース遠征とはまったく関係ないとわかるケース。私が「森脇さん、それ釣竿ですか? 持って行くのですか?」と声をかけると「うじゃうじゃ居てたくさん釣れますよ、きっと」とニコニコ顔で答えた。レース鳩の飼育など、動物とりわけ鳥が大好きな森脇さん。この頃、釣りに夢中だったのかもしれない。

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さて、このモリワキレーシングのオーストラリア・ニュージーランド遠征メンバーは、代表の森脇護さん、ライダー八代俊二選手と宮城光選手。メカニックは八代選手担当の二橋さん、宮城選手担当の雑賀さん、ニュージーランドからモリワキにメカニック修行に来ていたポール・ケンドールさんがメカニック兼、主催者との連絡や手続きなどの雑用?係り、そしてスギさんがフィジカルトレーナーとして合計7人。それ以外にTVの撮影スタッフが3人。それぞれが役割をもって参加している。私はチームの手伝いが出来るわけでもなく、発表媒体を持った取材でもなく、自身の興味とスキルアップのための単なる同行者であり、傍観者であり、旅行者だった。あっ、宮城選手、TVスタッフは空港で一行と合流だったかな。それと見送りでモリワキの福本忠選手や森脇さんの末っ子で長男の尚護くん(3歳くらい)が八代選手のバッグに乗り遊ぶ姿もあった。

大阪伊丹空港からフライト。オーストラリアへはJALの直行便ではなくシンガポール航空便。経由地のシンガポールまで7、8時間? 高いところや地に足のつかないものが苦手な私は、ずっと目をつぶっていたような・・・単に寝ていただけという話も。オーストラリアのメルボルンへ飛ぶ便に乗り換えるのだが、搭乗手続きまで4時間だったか6時間ある。蒸し暑い空港内でどうやって時間をつぶしたのか・・・すっかり忘れてしまった。とにかく搭乗までの時間を何とか過ごし再び機上の人となった一行。何時間飛んだのか憶えてないが無事にオーストラリア・メルボルン空港に到着した。これでやっと地に足がつけると思ったのだが、なかなか降ろしてくれない。そのまま着座していてくださいといわれ待っていると、通路の前方に男性キャビンアテンダント?空港職員?が立ち、おもむろに両手に持ったスプレー缶を噴射しながら通路を進んできた。外来昆虫などがオーストラリアに入らないようにするためらしい。ついた早々に殺虫剤の洗礼を受けることになるとは・・・。

つづく