鈴鹿8耐を2人で走る異常事態でも勝った高橋巧の強さ
レースウィークの木曜日、まだレースも始まっていないのに高橋巧は「今年の鈴鹿8耐は終わった」と思ったそうである。何故か?理由はひとつ、「鈴鹿8耐を2人で走ることになった」から。
鈴鹿8耐3連覇中のホンダワークス:Honda HRCは高橋巧、ヨハン・ザルコ、チャビ・ビエルゲの3人で参戦する予定だった。しかし7/31木曜日に手続き上の関係でチャビ・ビエルゲの参戦が見送られて高橋とザルコの2人で走ることが発表された。鈴鹿サーキットに衝撃が走る。
筆者は正直なところ2人で走ると聞いた時に「4連覇に黄色信号が灯った」と感じた。
しかし結果はHRCが圧倒的な強さで4連覇。高橋は個人で7勝目を挙げる新記録を樹立した。この過酷な状況の中をどんな思いで走ったのか、エースとして牽引した高橋巧に鈴鹿8耐から約1ヶ月後に改めて聞いてみた。
3人がスタンダード、が近年の鈴鹿8耐
鈴鹿8耐は長い間2人のライダーが走るのが常識であった。しかし近年の鈴鹿8耐は3人がスタンダードだ。理由のひとつが「暑さ」。特にここ数年は危険な暑さとなっている。今年のレースウィーク中にはお隣の桑名市で気温40度を記録した。鈴鹿サーキットも体温と同じ37度、路面温度は60度を超える酷暑となった。
過去の鈴鹿8耐では走行後のインターバルに点滴で水分・栄養補給を行っていた。しかし2010年からWADA(世界アンチ・ドーピング機構)の規定に準じて医師による治療が必要な場合を除いて、通常の休憩・交代時間に点滴を受けることは禁止された。熱中症に陥る可能性があるライダーにとって体内の熱放出と栄養補給は身を守るために必須。しかし次の走行まで1時間ではその時間が足りないと言われている。だから1時間以上のインターバルが空く3人のライダーで走行して必要十分な休憩を取っている。
熱中症が怖かった
レースウィーク中に3人から2人になることは滅多にない(転倒・怪我による欠員はあるが)。心の準備もできていない状態で戦うことになった高橋。
「2人で走ると聞いた時、信じられませんでした。だけどザルコが「俺たちは大丈夫!と前向きなコメントを発信していたので“やっぱりGPライダーは凄いな”と感心しました。自分は不安しかなくて。」
「ヤマハのプライベートテストで路面温度60度近い中でアンドレア・ロカテッリが2分6秒台を出した、と聞いていたし。でも“自分たちにできることをやるしかないか“と決意しました、と言うか思い込ませました」
参戦するだけなら2人でもいけるだろう。でも“勝つことが使命”のチームで2人は厳しい.。熱中症が怖かったと言う。
ザルコが危ない
タフさを見せていたザルコだが、流石にこの暑さは厳しかったようだ。2スティント目(2回目)の走行を終えた後に脱水により身体の一部が攣っていたという。そして3スティント目の走行時に異常がみられた。コースインして2周目、2:11.028、翌周2:11.354と明らかにラップタイムペースが遅い。
「これは厳しいか」と思われたが3周目に2分9秒台に戻した。驚くべきは13周目に2:06.895と6秒台に入れた。「何を考えているんでしょうかね?」と高橋も首を傾げる。
しかしやはり疲れは顕著なようで3スティント目走行の平均ラップタイムは2:08.895(Racing Heroes手元集計)と9秒台に近い。走行後には会話する余裕もなかったようでチーム内では「4スティント目は行けるのか?」との危機感もあったらしい。
「行けるかどうかわからないと言われても自分だって無理ですよ」と笑いながら言っていたが、それはレースが終わったから言えること。その時の高橋は相当の危機感を抱いていたはずだ。
無理やり食事を流し込む
7回ピットの場合2人で走るなら1人4回ずつ・1時間毎の走行となる。1時間で疲れが取れるのか聞いてみた。「全然取れません」と即答。
「自分は走り終えたらすぐにツナギを脱いでプールに入って体温を下げます。」
「1回目の走行が一番体重が減ります。汗が大量に出るので。どれだけ早く水分を吸収させるかが重要です。」
「減った体重を元に戻すのも大変です。いつもはプロテインをメインにしてあまり食べないのですが、流石に今年は食べないと保たないと思ったのでおにぎりをお茶漬けみたいにしてもらって食べました。走行直後は全然食べたくないのですが無理矢理食べた感じです」
昔の鈴鹿8耐は現代ほど気温も湿度も高くなかったし、点滴も認められていたので2人走行が可能だったが、現代は危険な暑さに加えて走行ペースが年々早くなっているので疲労度が増す。1時間のインターバルで実質の休憩時間は30分程度。水分・栄養を補給して疲労を取るには時間が足りないと言う。
平均ラップタイムの向上
驚くことにこの暑さの中を二人で走っているのに高橋のラップタイムは昨年よりも上がっている。HRCが集計したデータでも平均でコンマ5秒ほど上がったと言う。
タイムアップの要因を聞いてみた。「鈴鹿サーキットの東コース改修が大きいと思います。NIPPOコーナー上りの途中まで改修されているのでコーナーを登っていく時のスピードが乗ってセクター1、セクター2のタイムは上がっていると思います。」
本当にコース改修だけでタイムが上がるのだろか。「マシンとしては進化していると思います。そうでないと開発している意味はありませんし(笑)」
「だけどまだ満点を出すほどには仕上がっていません」
高橋の目指すバイク
今年、サスペンションがオーリンズに変わった。ヨーロッパのワールドスーパーバイク(WSBK)が主戦場のホンダは現地の意向でパーツが変わることがよくある。今年のモデルもヨーロッパ側でオーリンズへの変更を決めた。しかしWSBKはピレリタイヤ。鈴鹿8耐はブリヂストンタイヤ。根本が違う。「(従来の)SHOWAに合わせて作ってきたマシンにオーリンズを組み込んでもキャラクターが全然違うのでなかなか詰めることができませんでした」
高橋が目指す方向性は、アベレージを刻みやすく、扱いやすい(疲れない)マシン。耐久レースにはこの二つが大切な要素となる。
“一発のタイムには意味はない” 高橋が常々言っていることにも通じる部分だ。
「2018年から2019年にオーリンズのワークスマシンに乗りました。その時の感じが出ていない、つまりオーリンズの良さを引き出せていないのです」
高橋は2019年のマシンが今までで一番フィーリングが良いと言う。そう、全日本ロードレースでチャンピオンを獲得し、2:03.592と言う信じられない鈴鹿サーキットのコースレコードをマークしたマシンだ。安心できないから攻めきれない、疲れるから体力を消耗する、最近のマシンに対する評価だ。
ザルコもマシン開発
さらに今年は高橋とヨハン・ザルコの2人でマシン開発を行った。4月・5月のHRCプライベートテストにも来日した。「それぞれ役割分担して同時並行でテストを行うのですから時間の短縮に繋がりました。しかしそれを組み合わせた時のまとまりとなると少し話が変わってきます。」
「自分の乗り方、ザルコの乗り方で作ってきたものを合わせた時に全部が全部相乗効果を発揮するわけではないのでそこの調整は必要になります。でも、ザルコは非常に器用なライダーなので僕の方向性のマシンでも乗りこなします。お互い向いている方向は同じなのですんなりと進んでいった気がします。」
「ですが昨年も言いましたが開発期間が短すぎます。今年も開幕戦前の鈴鹿テストで初乗り。その後2回のプライベートテストと鈴鹿8耐のオフィシャルテストだけでした」
昨年優勝したマシンをベースに開発すれば時間の短縮も精度も上がったのでは?と質問してみた。
「それはなんとも言えません。昨年のマシンでOKなら良いですけどの伸び代がどれくらいあるのかわかりませんよね。勝つためにはさらに進化させる必要があります。そんなこともあってヨーロッパではオーリンズに変えたと思います。今年のマシンは去年以上のポテンシャルはあると思っています。但しそれはオーリンズの良さを引き出せる車体になれば、の話ですが」
今年のマシンからさらに良くなる可能性があるのか、と驚いた。。
速さと燃費を兼ね備えているHRCのマシン
100%満足できていないマシンで鈴鹿8耐を勝った。何が要因なのだろうか。
「燃費ですかね」
確かにライバルチームからも“HRCの燃費は驚異的”と言う話をよく聞く。
燃費を良くするためには燃料(噴射量)を絞る(減らす)。しかし絞ればパワーが落ちて最高速度もタイムも伸びない。HRCの凄いところはあのタイム(パワー)を出しながらも燃費が良いところだ。
単純に疑問に思った「何故?」
「ワークスだからではないでしょうか」
真っ当な回答(笑)。その先が知りたいのだが。
「自分はメカニックではないので詳しくはわかりませんが電子制御だと思います。メーカーだからエンジンを熟知している。燃料噴射量もきめ細かく設定・調整できていると思います。」
その年に使うガソリンできちんと燃費を計算してテストも行なっている。
「加えて経験。今年で4回勝っています。その膨大なデータ量から細かい分析に基づいて計算していると思います。但、これ以上燃費を向上させるのは難しいのかなと思います」
HRCのこの速いペースで走ってもこれだけの燃費を確保できているから7回ピットが実現できた。現時点ではHRCに勝るペースで走れるマシンは見当たらず「現状はここで十分ではないかと思う」と高橋。
20秒の差が一気に2秒に
トップHonda HRC、2番手YAMAHA RACING TEAMが走行を続ける中、ドラマは終盤に起きた。17:34 #55号車がヘアピンで転倒、パーツがコースに散乱したため今大会初めてセーフティカー(SC)導入された。
鈴鹿サーキットはコース全長が長いためSCはヘアピン立ち上がりとピットロード出口の2箇所から投入される。順位争いをしているチームにとってSCが何処に入るかでタイム差が開くか縮むかが別れる。
SCが入る前のHRCとヤマハの差は20数秒。SCが入るグループは別れて欲しいと思っていた。
しかし「SCが入ってすぐに後ろを振り返ったら赤いマシンが見えました。20秒だから怪しいなと思ってデグナー立ち上がりでもう一度後ろを見たら”21“のゼッケンが見えて二度見しました。」「これはヤバイと、この時は焦りました」
2分7秒台の驚異的なラップタイム
SC明け、高橋は勝負に出る。一気にペースを上げて中須賀を引き離しにかかる。「中須賀さんは怪我しているし(7月のプライベートテストで転倒・ケガをしていたRacing Heroesリンク)、アンドレア・ロカテッリにチェンジしたら離せないだろうから今しかない」と思いました。
SC明け2周目の175周には2分7秒フラット、そしてあろうことか176周目には2分6秒台に入れる。しかも6秒台を連発。その後も13周にわたり7秒台で周回を続ける。SCを除いた高橋のこのスティントは平均2:07.515(Racing Heroes手元集計)。7秒台中盤で走るという信じられないことをやってのけた。
絶対に転ばない高橋の信頼
HRCにはメインカー/Tカーと言う明確な区分けはない。予選終わりで決勝レースを走るマシンを決めた。ザルコはTOP10トライアルはもう一台のマシンで走った。「何かあってもいいように」
他方、高橋は本番車。「何故自分は本番車に乗って良いんだろう?」と思ったがそこには「高橋は絶対に転ばない」と言うHRCからの厚い信頼があったからだ。
その本番車で高橋は2分5秒223をマークする。「ストレートで若干ガソリン噴射量を増やしたくらいで仕様は耐久のままです」と言う高橋。普段から“一発のタイムには興味ない”と言っていた高橋がこのタイムをマークした理由を聞いてみた。
「昨年YARTがポールタイムをマークした直後に転倒してマシンを大破させました。ザルコがタイムを出すのはわかっていましたが、万が一のことを考えて5番手以内くらいに入っていれば良いかな、と思ってアタックしました」
本番車でキッチリ5秒2をマークするところが凄いし、自身の役割をしっかりと認識しているところも高橋らしい。
強靭なメンタル
フィジカルの強さはもちろんだが、メンタルも強くないと走れない。
どんな思いで走ったのか?
「2人で走ると聞いて最初に心が折れました。ですが今年ヤマハファクトリーが復活して勝てなかったら“ヤマハがいなかったら(HRCが)勝てたんだ”と言われるのが見えていたので、それは絶対に避けたかったです。」
ヤマハファクトリーが参戦している時にこそ勝たなくては意味がない。意地と言ってもいいかも知れないこの強い意志が高橋を最後まで走らせた。
だが普通の人間であれば心が折れた段階でモチベーションが下がるだろう。それを乗り越えた高橋のメンタルの強さに敬服する。
速かった國井勇輝の第1スティント
決勝レースではホールショットを奪う。意外なことにトップで1コーナーに入ったことは無かったそうだ。オープニングラップで國井勇輝が仕掛けてきた。NIPPOコーナー進入で高橋のインに飛び込むとそのままトップに浮上した。「序盤ずっと2分7秒台で走行していて速かったです。自分が少しペースを上げても(國井との)差が詰まりそうになかったので第1スティントはトップでなくても良いか、とは考えていました」
しかし13周目の130R立ち上がりで國井がバックマーカーに引っかかる。高橋はラインを変えていたのでシケイン進入時には國井を抜いていた。
「タイヤマネジメントやガソリンセーブを考えてペースを作っていましたが、前に出たら少し上げるしかないか」と思いペースを上げた。そのまま第1スティントを2分8秒フラットの平均ラップで走行し、後続に13秒の差をつけた。
昨年は第1スティント終了時に2位に10秒の差をつけて「今年の自分の役目は終わった」と思ったが今年はどうだったのか?
「そんなこと考える余裕はなかったです。あと3回、本当に走れるのか?と言う不安の方が大きかったです。2人で走るからどちらかが調子悪くなったら10秒位の差なんてすぐに無くなってしまいます。事実SCで20秒の差が2秒にまで縮まりましたし。今年は最後のゴールを受けるまで気を抜けなかったです」
2人で走るのが当然とは思ってほしくない
今年HRCが勝てたのは高橋/ザルコだったからこそ。
「今年我々が勝ったから”なんだ、2人でもいけるんだ“と安易に考えて欲しくないです」と切実に高橋は言う。
その通りだ。この時代の鈴鹿8耐を2人で走るのは危険だ。
「2人で走ってはいけない」と、2人とも口を揃える。
MotoGPライダーとしての強靭なフィジカルとメンタルを持ち合わせているザルコでさえ危ない時間帯があった。高橋も異常なくらいの暑さ対策を行なってきたからなんとか走り切れた。
「今年参戦したチームの中でHRCが一番準備ができていたのだと思います。開発時間が少ないと言いながらもプライベートテストを行なっていますし、ザルコも3回来日してテストしています。燃費も取れた中である程度ペースで走らせることができた。そこに勝てた要因があると思うのですが2人は絶対にダメです」
「今年の鈴鹿8耐が一番辛かった」としみじみ語る高橋。
滅多に弱音・弱気なコメントをしない高橋が「辛い」と言う言葉を使った。それが全てを語っているだろう。
これで前人未踏の7回目の優勝を果たした。これからは自分との闘いになると言う。優勝記録をもっともっと伸ばしてほしい。
Photo & text:Toshiyuki KOMAI
Special Thanks: Photo 水谷たかひと